ガージャール朝最後の王、アハマド・シャーの肖像図ペルシャ絨毯である。
1909年、11歳で即位したアハマド・シャーは、政治にはまったく関心を持たず、すべて大臣にまかせたままであったという。摂政を廃したのは1914年のことで、自ら統治しようとしたが、あまりにも無力であった。イラン北部はロシアが利権をすべて奪い、イラン南部はイギリスが利権を確保した。1918年には第1次世界大戦が休戦となり、ロシアはソ連となり、オスマン帝国も大戦に敗戦したこともあり、1919年にはイギリス・イラン協定が締結され、イランは実質上イギリスの保護国となった。アハマド・シャーは協定を支持した見返りとして年金の支給を要求したといわれているように、彼の情熱はひたすら蓄財に注がれていたとも語られる。
このペルシャ絨毯は、注文によりテヘラーンで製作されたと考えられている。
絨毯のフィールド上部に3つのカルトゥーシュがあり、そこに文字が織り込まれている。右上のカルトゥーシュにはファルマーイェシュfarmayesh「注文、命令」とあり、左上のカルトゥーシュには「ミールザー・ハサン=アリー Mirza Hasan-Ali」とある。中央のカルトゥーシュには、テムサーレ・アラーハズラト・ソルターン・アハマド・シャー・ガージャール Temsal-e A‘la-hazrat Soltan Ahmad Shah Qajar 「ソルターン・アハマド・シャー・ガージャール陛下の肖像」とタイトルが織り込まれている。
フィールドのアーチを支える柱は装飾が施され、花瓶から伸びる樹木も空間を埋め尽くし、天井アーチ部分にもエスリーミーの曲線が大胆に渦巻いている。柱や花瓶の水平ラインと絨毯の間もさりげないフロアの装飾が窺える。もはやメヘラーブの意匠ではなく宮廷の広間のようなシチュエーションがフィールド全体に展開されている。
アハマド・シャーの肖像図ペルシャ絨毯は、カーシャーンなどでもよく織られていたが、着座したものが多く、このように立ち姿のものは珍しい。
メインボーダーには草花モティーフが反復された図柄を背景に、赤い兎が対となり飛び跳ね、また角には小鳥が配列されている。楽園のような表現である。
作品解説
河崎憲一
意匠名 : 肖像図 (タスヴィール)
製作地 : イラン・テヘラーン
製作年代 : 1910年代
サイズ : 200×132cm
パイル素材 : 羊毛
織り密度 (結び・横×縦/cm) : 8×8
ダラ・コレクション